安田工業株式会社
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辰 野 金 吾 に つ い て (西村文利氏のコメント)
■ 辰野金吾氏のレンガ構造   1912年(明治45年竣工)
------”日本のレンガ積造 ”が確立された、記念すべき建物の一部です。今回いただいた、”レンガの積造”の断片『塊』は、1912年(明治45年)に竣工された、旧安田製釘所{現、安田工業(株)八幡工場の発電所の一部です。
■ 辰野金吾とは
辰野金吾は東京駅や日本銀行本店など日本を代表する建築物を数々手がけ、明治期を中心に活躍した建築家である。

■ 日本の「組積造」の歴史
世界の内の70%の人は、レンガ・石で積まれた"組積造"の家に住んでいる、 と言われています。しかし日本では、一部の地方にしか"組積造"はありません。
明治になり、イギリス人コンドルにより、"レンガ積造"がもたらされ、日露戦争後、雨後の竹の子のように、"レンガ積造"の建物が建てられました。しかし、当時のレンガ造"は、ヨーロッパ式の壁の厚さが1メートル以上もある工法で、地震によるヒビ割れもかなり出たようです。
 
■ 日本のレンガ造の開拓者"辰野金吾"博士ついて
 辰野金吾氏は1854年、佐賀県に生まれ、東京大学の前身にあたる、工部大学高に学びコンドルに師事しました。卒業後イギリスに留学。帰国後の1884年(明治17年)東京大学の教授になりました。
 初期の頃の氏は、ヨーロッパそのものの古典主義様式の建物が多く、1896年(明治29年)に完成された日本銀行本店は、その代表作と言われています。
 その後、東京大学工科大学長を経て、1902年退官後、辰野葛西建設事務所を設立し、"民"の立場から活躍を始め、矢継ぎ早に明治期を代表する建物を建て、最盛期を迎えています。
  この当時から、"日本のレンガ積造"を模索し始め、ヨーロッパ流の壁の厚さに頼る、"壁中心構造"から、柱を多用し、壁厚を薄くする"柱中心構造"に変化しています。
そして、この建物を造った1912年頃には、構造用の壁厚は、レンガを二丁半使った54pに、ほぼ統一されています。
 この"『二丁半の壁厚』が、その後のレンガ積造の標準"となっていきました。
 この後、1914年(大正3年)、中央停車場(現、東京駅)を完成させます。
皇居に対面したこの建物は、赤いレンガに白い石を配しデザインの上からも、「西洋からの脱却、日本のレンガ積造の確立」を目指していた、と思われます。
 そして、1919年惜しまれながら死去いたしました。
■ 安田製釘所 八幡工場発電所の歴史的意義
  〜この建物は、建築、文化的に見て、3つの特徴があります。
解体前の建物
(1)
日本のレンガ積造を確立していること。
 上記のように、日本的な発想と言える、構造として54pの壁を基本とする工法を普及させレンガ積み職人の指導・育成等、実績を残しました。
このことは、現在残る、数少ない「レンガ職人」に、その技術は受け継がれています。

  <解体前の建物>
(2)
八幡製鉄の廃材、水滓を使ったレンガを作って使用していること。
そもそも、この地に安田製釘所が建てられた理由は、
海外からの輸入に押されていた”釘"の市場を、国産釘で制するため。
官営八幡製鉄所が、1908年に線材を生産開始。
近辺に釘工場を設ける必要が生じたため。
 1912年、製釘所を設けるにあたり、監督指導を八幡製鉄所の鋼材部長に仰いだことからして、国策としての事業の性格が強かったと考えられます。
 当然八幡製鉄所の影響力は強く、埋め立てには焚き殻、建てるレンガ材には水滓、が使われることになったようです。
 『水滓レンガ』の使用は他所では例が無く、もっと後年、セメントレンガの一種として使用が見られるだけのようです。しかし約90年経っても、未だかなりの強度を保ち続けていることは、セメント製品としては、信じ難い存在です。
 また、当時"セメント"は、非常に高価なもので、大量に使うことはとても不可能で 消石灰等による"水酸化カルシウム"反応に由っていたのでは?と思われます。
ともかく、この『水滓レンガ』は、いきなり現在に姿を現しました。
 この90年以上は保つ『水滓レンガ』の技術を現在に伝えることは、我々の義務と考えます組成分の分析、強度の実験等、今後の研究に待つことになりましょう。

(3)

 松杭の上にレンガを積んだアーチ状の基礎を載せていること。
輸送の便と八幡製鉄所からの原料供給を受ける必要から選ばれたこの地は、かつては低湿の田地で、干満によって海水が浸入するような土地でした。
 そのため、八幡製鉄所の焚き殻により、五尺から七尺埋め立てられたようです。
 掘ってみて分かったことは、上記の写真に見える、アーチを支える柱脚のベースの下に、10本から12本の松杭を打ち込んだ跡がありました。
 残念ながら松そのものは腐蝕してしまっていて土と化していましたが、ただベースに杭等の跡があり、そこに松材の片々が見受けられました。
 アーチによる荷重の分散は、九州地方には江戸時代からある"水道橋"をヒントにされたのでは、と考えられます。


アーチ基礎
以上のことを繋げて考えてくると、もうひとつのものが見えてきます。
 もしも、これらすべてのことに、辰野金吾氏が関わっていたのなら、まさしく輸入物でない「日本の建築」であったろうし、こと建築に留まらず、文化・文明、伝統、生活までも視野に入れていた"とんでもない人"だったと、言えましょうか。

〜以上、90年の時を越え、はるばる九州からやって来たこの"塊"に、いろいろな想いを記し、この良き技術を広く、何時までも伝えていくため記念と致しますこの"塊"は、安田工業(株)様のご厚意により、ご寄贈いただきました。ここにお礼申し上げます。
〜2001年12月5日 (文責)日本組積造研究会  西村文利
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